2011年1月18日火曜日

バーチャルでデジタルな





いつかのごはん。




写真を撮る、という行動。
たとえばそれが誰かと一緒にいるときに。
デジカメや一眼や、本来の写真を撮るためのカメラで撮られたり、それを取り出したりされるのは全然問題ない。むしろいいなあと思うことのほうが多いように思う。

けど、それが携帯のカメラとなると。

もちろん私も日常的に、携帯電話の機能がついたカメラで写真を撮っている。
この最初の画像だって、iPhoneのアプリ機能で撮ったものだし。

だけど通信機能が付加された時点で、なんだかすごく写真が刹那的なものになってしまうというか、安っぽくなってしまうというか、
ミーハーというか、ゴシップ的というか…
それで写真を撮ることや撮られることに、常にかすかな抵抗を感じていたりする。

誰かと行動している時に、相手に携帯を出された時のちいさな悲しさは、
その通信手段を使った先の不特定多数の誰かに嫉妬しているのかなあ、なんて思った。

iPhoneの機能とかについて共有する時に、お互いにそれを出しているのは
もちろんなんでもないのだけど。

ネット文化が発達してコミュニケーションが昔よりも温度をもたず、しかしより簡単に交わせるようになってから、
私の中で、かえってそういう簡単な連絡手段に対する否定的な感情が
頭をもたげてきたような気がする。
手紙を書きたいし、手紙よりも電話をしたいし、電話よりも会いたい。

ただ、TwitterとかSNSならではの良さというものも知っているし、そこにしかないものも大事にしたいから、
ちょっと罪悪感を覚えながら写真を撮って投稿したりもする。
Twitterの良さって「今、その瞬間」のことだったりするから。
タイミング。

ただその間のジレンマにいつもなんとなく苛まれている。

誰かと一緒にいるときは、なるべく、
「私は今、あなたと話がしたいのです」という意思表示も兼ねて、
携帯は存在を忘れるようにしている。
写真もなるべくデジカメで撮ろうって思ってる。嘘。思い始めた。

ただどうしても見なきゃいけないときは、心の中でごめんねってちいさく謝ってる。


ネットに触り始めた頃は、バーチャルとリアルのギャップに悩んだこともたくさんあって。
だから今はその差を埋めようとして、リアルの情報を一生懸命相手に伝えようとしてるのかもしれない。

私の中で、ゲームは大事な歴史の一つだし、今でも大好きなんだけど、
それはあくまで別世界であって、
現実の世界に介入してくるものではないという線引きがどこかにある気がする。

たぶん、バーチャルで作り上げた世界を現実でも偽り続けようとしても、うまくできないと思う。

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